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徳蘭修女智慧語録

                             キリストのかおり 」 (マルコ福音書14:3−9;コリントU) 小海光牧師

今朝は、再び東京台湾教会にお招きいただき、皆様と共に礼拝できますこと神様に心より感謝いたします。  受難節の時もいよいよ終盤を迎え、来週は受難週に入ろうとしています。この時、主イエスキリストの十字架への道を覚え、その愛の業を私たちの心に刻むために、今日は記念、思い出ということについて、考えてみたいと思います。

さて、思い出ということを考えると、私たちの人生はまさしく思い出の積み重ねといえるでしょう。皆さんの、子供時代や、若かったころの思い出を振り返ってみてください。どんなことを思い出されるでしょうか。私は、牧師の家に生まれ、裕福ではなかったけれど、暖かい愛情に恵まれて、のほほーんと子供時代を過ごしていたように思います。留学してから、結婚をし、牧師になって、今まで考えていなかったようないアメリカの田舎での生活と牧会を経験し、また、母を癌で天に送り、長女が白血病になりと、様々な経験をして来ました。私自身、幸せな思い出もあれば、悲しい重い出もたくさんあります。でも、年を重ね経験を重ねてくるに従い、どんな思い出にせよ ひとつひとつの経験が、深く織り合って、今のこういう自分があるんだなということが見えてくるようになりました。ここで、ふと自分に問いかけるのは、「いったいみんなから私はどんなふうに思い出されているんだろうか。」というものです。あの時に出会ったあの人は、私のことをどんなふうに思いだしてくれているのかしら、と思ったりします。実は、先日、ボストン時代の友達に、30年ぶりに東京で会いました。お互い30年の歳をとり、それぞれの人生を歩んでいるのですが、30年前の学校生活の話に花が咲き、楽しいひと時を過ごしました。彼女に言わせると、「実践神学の時間にHikariがしたディボーションは今でも忘れられない。太陽と星の関係から、キリストの光を反映する星として歩みたいと言ったよね。あれで、私は牧師になろうと決心したよ。」と言われたけれど、私は全く覚えていないのです。

みんなに特別なかたちで、思い出してもらいたいと思うのは人間だれもの願いです。簡単に忘れられてしまうのでは、悲しいのです。ですから、ある人は、自分の銅像を作ります。またある人は、道や建物に名前を残そうとします。何かしら自分の記念となるものを残したいと思うのが、私たち人間です。でも実際、そういう記念物が、どれだけその人の思い出を語るでしょうか。さて、今日の聖書のみ言葉をふりかえってみましょう。福音書の話は、イエス様が十字架にかけられる前に、ベタニアのシモンの家で食事をした時のできごとです。ある女性がなんの前触れも無く、とつぜん高価な香油をイエス様の頭に注ぎました。このナルドの香油の話は、詳細の違いがあるにせよ、4つの福音書のすべてに残されています。今日はあえて、マルコによる福音書のものを選びました。マルコの福音書では、この女性の名前は、記録されていません。どんな女性であったかもわかりません。でも、聖書が書かれた時代背景を考えれば これは驚くことではありませんね。当時は女性のIdentityが、無視されるのは当たり前のことでした。  

イエス様が2匹の魚と5つのパンで5000人の人たちの空腹を満たした奇跡の話でも、女性や子供もいてその恵みを受けたのですが、記録の数には数えられませんでした。多くの女性たちが その信仰でよい行いと証をする話は、聖書にたくさんあります。たとえば、井戸に水を汲みにきてイエス様と出会ったサマリヤの女性の話は、喉の乾き以上に魂の乾きを癒すことの大切さとを私たちに教えてくれますが、この女性の名前を私たちは知りません。長い間血液の病気にやんでいた女性が、大勢の人混みの中にいたイエス様の衣のすそに触れると、いやされたという奇跡の話があります。せめてすそにふれるだけでもという純粋な願いと信仰は、イエス様の心を動かし、称えられるのですが、やはりこの女性の名前は記録されていません。ですから、今日の聖書おはなしにでてくる女性が、だれで、どんな人だったかが詳しく書かれていないことは不思議ではありません。しかし、驚くべきことには、彼女のした行為については、実はマタイ、マルコルカ、ヨハネの4つのどの福音書にももれることなく記録されました。これは、驚くべきことです。それだけ、キリスト教信仰に重要で、意味がある出来事だったからでしょう。  

           先ほど言いましたが、この女性については、どんな背景を持った女性であったかはいろいろな説があって、はっきりとは断定されていません。ただ私たちにわかっていることは、この人はイエス様がどなたであるか、またその存在と働きが何か特別な目的を持っているということを霊的に理解していたにちがいないということです。そこで、自分の宝物であるはずの高価な香油、ナルドの香油をおしむことなくイエス様に捧げたのです。礼拝したのでしょう。この行為は、一見異様に見えますが、この後すぐに十字架で自分の体を犠牲にされるイエス様の死の準備のための礼拝そのものでした。  

ところが、そこにいた人たちは、弟子たちを含めて、彼女の行った、感謝と礼拝の行動が理解できませんでした。ある弟子はなんて無駄なことをするかとこの女性をひどく非難しました。この非難の声の中 イエス様はおっしゃられます。「世界中どこでも福音が宣べ伝えられるところでは、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」 この言葉どおりに、この行いは2000年たった今でも語り伝えられています。私達はこの人の名前さえ知りません。でも信仰の力に押し出されて愛の業をささげた人として、この女性はキリスト者の間でいつまでも思い出され語り継がれてきたし、これからも語り注がれていくでしょう。  

私はこのナルドの香油の話を教会学校で何度も聞かされて育ちました。聞くたびにいつも 思ったことは、どんなにおいがしただろうということでした。母の香水を子供心にいつも憧れを持って見ていた私には、高価な香油のつぼを壊したときに部屋中にあふれた香りは、凄かっただろうなあと想像していました。きっとよい香りがいっぱいに満ちあふれたはずです。今日のもう1つの聖書の箇所、コリント人への第2の手紙で、使徒パウロは、「私達はキリストのかおりです。」と言っています。どういうことでしょうか。香りは目には見えません。でも、いろいろなことを語ってくれます。いろいろな思い出をはこんできてくれます。          

私がニューヨークの郊外でアメリカ人教会の牧師をしていた時、ある 教会員の方が亡くなりました。その方は、83歳で、古くからの教会員でした。私が教会に来てからは、体が弱り、ほとんど教会の礼拝には出席できませんでしたが、お家にお訪ねするといつも笑顔で迎えてくださり、感謝と励ましの言葉をくださいました。お訪ねするたびに、かえって私の方が恵まれた思いで、帰ってくるほどでした。その方が亡くなって、思い出をみんなと語り合っているうちに、アップルパイという言葉を何人もの人から、聞きました。だれかが病気になったときや、誕生日など、かならず、アップパイを焼いて訪ねてくれたそうです。教会員の中で、彼女のアップルパイをもらわなかった人がいないくらいでした。その上、教会員だけでなく、町の人にもパイを焼いて訪ねていたそうです。その親切によって慰められた人がたくさんいました。お葬式に出席した人たちのほとんどが、彼女のアップルパイによって元気付けられた人たちでした。そういえば、私の誕生日には毎年、アップルパイを焼いて持ってきてくれたなーと私も思いだしました。ですから、葬儀のあとの交わりの時には、もちろんアップルパイを焼いて、みんなで思い出を語り合いました。アップルパイのにおいをかぐと、今でも彼女をおもいだします。  

人が天に召されると、私達はどうするでしょう。お葬式の司式に、またお墓に、その人の生まれた年と亡くなった年を記録します。そして、私たちはこの2つの数字に注目してこの人の人生を語ろうとします。長い人生だったとか、短かすぎたとか。でも、本当に注目すべきなのは、実は、数字の部分ではなくて、その間にある小さなシンボル、ダッシュの部分ではないでしょうか。私達が見落としがちなダッシュこそが、1番大切な部分なのです。なぜなら、このダッシュの部分こそ、その人がどんなことをしたのか、どのように生きたかを語っているからです。  

イエス様は、一番大切なこととして、「私があなた方を愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と教えられました。この言葉は、名言として聖書に書き残されるために言われた教えではありません。イエス様は弟子たちの足を洗い、社会でさげすまれている人たちと食事をし、病んでいる人たちを癒しなぐさめました。そして、それでは終わらずに、究極の愛の行いとして、私たちの罪を購うために自らの命を十字架の上でささげ、死を超えた復活によって、新しい命を与えてくださいました。その愛の行いのうちに、この言葉は生きた教えとなりました。イエス様は銅像も記念碑も残されませんでした。ただ愛の業が人々の心を変え、魂をいやし、その人たちの生き様によって、福音は語り伝えられてきたのです。キリスト者として私たちが残すべきことがあるとしたらそれは、何でしょうか。イエスキリストの教えに聞き従いその生き方に習う者として、私たちが残していくものとは何でしょうか。それは名声や誉れや富ではなくて、もっと大切なこと、愛の行いに生きる生き様です。  

たくさんの人が、自分の名前が、学校や建物や道路に残されたなら、どんなに名誉なことだろうかと思っています。しかし、キリスト者として 名前を残すことよりももっと大切なことは、キリストのかおりを残していくことではないでしょうか。私たちの愛の行いが誰かの心に触れ、その人が神様の愛を知るようになったならば、そして、神様の栄光がたたえられたのであれば、それこそが、キリスト者としての喜びです。  

 使徒パウロは、こう言っています。「神様は、わたしたちを通して至る所に、キリストと知る知識のかおりを放ってくださいます。」と。どんなかおりを 私たちはただよわせているでしょうか。批判と不平ばかりで、周りの人たちに悪臭をまきちらしていないでしょうか。自己中心で高慢なにおいを漂わせていないでしょうか。もし私たちの言葉が、励ましと癒しを周りの人たちに与え、私たちの行いで喜びと希望を誰かに届けることができるなら、きっと、みんなはよい香りを楽しむことができるでしょう。キリストの愛のかおりを放つ者として生きるよう、共にいのり、歩んでまいりたいと思います。  

お祈りいたします。愛に富みたもう神様、あなたから与えられた命の賜物をかんしゃいたします。 ひとりひとりが、与えられています、毎日の歩みの中で、キリストのかおりを放つ者となりますように、用いてください。この世の誉れや、富を求めるのでなく、あなたの示された愛のうちに生きることを求め続けることができますよう、強めてください。この信仰の群れをあなたが祝し、導いてくださることを信じ、この祈りを、主イエスキリストの名によって祈ります。 アーメン