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徳蘭修女智慧語録

 

                                        思い煩いからの脱却    (ルカによる福音書122234山元克之牧師  

○はじめに

 本日は、皆様と礼拝を捧げることができますことを心から感謝しています。今から6年前、私は岩手県の花巻教会で牧師として仕えていました。その時、あの大きな地震が起こり、自然の破壊力に対する人間の小ささを経験しました。同時に、小さい人間が支えあうことで生まれる、神のなさる大きな奇跡を目の当たりにしました。6年前、李先生をはじめとする、東京台湾教会の皆様が被災地にいた私をはじめ被災教会を多くの祈りをもってお支えくださいました。その皆さんと本日礼拝を捧げることができますことは私にとって特別な時であると感謝しています。

 「大は小を兼ねる」日本語のことわざです。小さい容器に大きなものは入れられないけれど、大きい容器には何でもはいるから、小さいよりは大きいほうが良いという意味です。子どもの頃親からよく言われたものです。あれはどうも嘘ですね。東北地方で牧師をしていましたが、3年前青山学院で仕えることになり、東京に引っ越してきました。広い住居から狭い住居に変わりました。1年に数回しか使わない馬鹿でかいクーラーボックスは邪魔でしかありません。大きなテレビも、東京の家では見ていると酔ってしまいます。

 大は小を兼ねません。それぞれに適した大きさというものがあります。

 しかし、人は小さいことへの不安から少しでも大きくなろうとします。もう少しで40歳です。教会ではまだまだ若いと言っていただくのですが、自分の中では少し老いを感じ始めています。階段を上ると少し息が切れるようになってきました。本を読むとき字がかすむようになってきました。着実に年を重ねています。できることが少しずつ、少しずつ減っていく。小さくなっていく。それと重なって不安も増えてくる。

 肉体的なことだけでいうならば、人は小ささの中で生まれ、気が付かないうちにピークを迎え、そして少しずつ、少しずつ小さくなっていく。つまり、人は、いつも自らの小ささを感じて、生きているということです。そうであるとするならば、私たちにとって大切なことは、どのようにして大きくなるかということもそうかもしれませんが、自分の小ささとどのように向き合うかということの方が大切なのかもしれません。

 それは肉体的なことだけに限らないでしょう。霊的にも精神的にも自らの至らなさ、小ささを、年を重ねたからこそ日々感じるものであります。姦淫の罪を犯して現行犯で捕えられた女性が、イエスの前に連れてこられた時、主イエスは「罪を犯したことのないものがまず石を投げなさい」とお語りになりました。それに対してそこにいた人々は、年配者から順に去って行ったと聖書は言います。年配者、年を取った人から去っていったというところが興味深い。年を重ねたら、精神的に、霊的に大きくなるのではない。むしろ、年を重ねるにつれて、自らの小ささを感じるのであります。

 ◯小さいことの不安 

 そのような私たちに今朝、主イエスはお語りになります。「小さな群れよ。恐れるな」

 小さいことは怖いことです。だから私たちは小さくあろうとするのではなく、少しでも大きくなろうとします。小さいものの声は聞き捨てられ、大きな人の声が轟く。小さいものは隅へと追いやられる。そのような社会的な構造となっていることを私たちは知っています。そのような構造を知っているが故に、小さいことに不安を覚えます。良くも悪くも大きい者は、何をしても目立ちます。だから誰からも忘れられることはないでしょう。しかし、小さいということは、忘れ去られるし、簡単に消されてしまう。軽く扱われ相手にされない。認めてさえもらえない。小さいということはまさに無力な存在であることを思います。

 教会の現実もまた同じでありましょう。日本の社会の中で教会という群れは実に小さな群れであります。そのような中で、私たちは、教会の力の小ささに不安を覚えます。私たちの普段の悩みは、大きいという悩みより圧倒的に小さいという悩みの方が多いのです。

そのような私たちに主イエスは今朝お語りになります。「小さな群れよ。恐れるな」主イエスは、弟子たちの群れを「小さな群れ」とお語りになっています。そして「恐れるな」と言われるのです。まず確認をしておきたいことは何よりも、小さな群れには恐れがあり、悩みがあるということを他でもない主イエスはよくご存知であられるということです。主イエスがそのことをご存じなのは、主イエスが誰よりも小さくなられたからです。クリスマスの出来事が、主イエスのご生涯が、十字架の死が、主イエスは小さいものとして歩まれたということを示しています。

小さいものとして小さいものの不安を主イエスは知っておられる。その主イエスの言葉です。「小さい群れよ。恐れるな」。今この時、小さき故に、不安を覚えている者の不安を他でもない主イエスが知っていてくださいます。自分は小さいと嘆くものの嘆きを、小さい私たちの不安を、教会の小ささに不安を覚える私たちの悩みを主イエスがご自分の身を持って知っておられる。そしてそのことを踏まえつつ、主イエスは小さく弱い者たちに「恐れることはない」とはっきりお語りくださっているのです。

◯恐れることはない

 「小さな群れよ。恐れるな」これほどまでにはっきりと主イエスが私たちにお語りくださる理由はなんでしょうか。

本日与えられた御言葉の冒頭で「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」そのように主イエスは言われています。

「何を食べようかと思い悩むな」。私たちはいつも何を食べようかと悩みます。説教の準備をする直前まで妻と話をしていたのは夕食に何を食べようかということでありました。皆様も、説教を聞きながら、今日のお昼ご飯の心配をされている方がおられるかもしれません。ただ、主イエスがお語りになる「何を食べようかと思い悩むな」という言葉は、私のような悩みとは違います。

「命のことで何を食べようかと思い悩むな」と言われます。命を守るために食べなくてはならない時代でありました。食べるものがない時代であります。その日の命をどうやってつなごうかと悩んでいるものに主は「何を食べようかと思い悩むな」とお語りになっているのです。服に関してもそうです。私たちは毎朝、持っているたくさんの服の中からどのような服を着てくるか悩みます。しかし今朝主イエスがお語りになっていることは、そういう悩みではないのです。着るものがたくさんあって、その日の気分で服を選ぶという時代ではありません。必要最小限の衣服しか持っていない、あるいはその日着るものがないものに主は「何を着ようかと思い悩むな」とお語りになっているのです。

つまり、ここで思い悩むなと主イエスがお語りになっているのは、沢山あってどれにしたらよいか決めかねるという大きいゆえの思い悩みではなく、何もなくてどうしたらよいか分からないという小さいが故の思い悩みであることがわかります。とても切実な思い悩みなのです。

その切実な思い悩みを持つ小さきものに「カラスのことを考えてみよ。野の花を考えてみよ」と主イエスは続けてお語りになります。主イエスはカラスや野の花を神様が養い装っておられることへと私たちの目を向けさせられます。そして、私たちの命も体も神さまが養い装ってくださるのだとお語りになるのです。

続けて命のこと体のことで悩むのは「世の異邦人が節に求めているものだ」と主イエスは言われます。ここで言われる異邦人とは神様を信じていない人ということです。神さまへの信頼がないから小さきことに恐れを覚えると言われるのです。

そのような意味で本日、主イエスが私たちにお語りくださることは実に単純で、しかし最も大切なことであります。神さまを信頼しなさい。神様を信頼していれば自らの小ささを嘆く必要はない。思い煩うこともない。そのような悩みは神様を信じていないものたちの悩みである。小さいことは怖いことではある。しかし、小さくてもあなたを守っているお方がおられるのだから恐れることはない。カラスや野の花のような小さきものに目を留めておられる神様を信じなさいと言われるのです。

◯積極的な生き方

その上で「ただ、神の国を求めなさい」と言われます。見事な、視点の転換をここで主イエスはお語りになっています。小さいがゆえに「思い悩む」という消極的な在り方から、小さいがゆえに「神の国を求める」というより積極的な在り方へと導いておられるのです。神の国とは、神さまのご支配ということです。この世のものを求め、この世の大きさを頼りとし、この世の価値観に支配されて思い悩むような生き方ではなく、ただ神こそを信頼し、神こそを頼りとし、神こそを必要として生きることを、勧めておられます。それはつまり、自分はできないという小さきを嘆くことではなく、むしろ自分は小さいからこそ委ねるべきお方に委ねるのだという、小さきを誇る生き方をここでは勧めてくださるのです。

  このような物語があります。3人の旅人が命の水を求めて旅をしていました。その水を飲んで永遠に生きたいと願っていました。

1人目は戦士でした。彼は命の水と言われるくらいだから、番兵がそれを守っていると思っていました。彼は、甲冑を身につけ武器を携えて出かけます。彼は力ずくで命の水を手に入れるつもりだったのです。

 2人目は魔法使いの女でした。彼女は命の水と言われるくらいだから魔法がかけられているに違いないと考えていました。彼女は星をちりばめた裾長の魔法の衣を着て、魔法の力で命の水を手に入れようと意気込んで旅に出ました。

3人目は商人でした。彼は命の水と言われるくらいだからその水はとても高価に違いないと考えていました。彼は服のポケットや財布にありったけのお金を詰め込み、お金の力で命の水を手に入れようと出かけました。

目的地に着いたとき3人はびっくりしました。命の水はほんのささやかな、キラキラ輝く湧き水でした。それは無料でした。でももちろんそれを飲むには跪かなければなりません。3人の旅人は困りました。戦士は甲冑を着けていますので身をかがめることすら出来ませんでした。魔法使いは裾長の魔法の衣を着ていました。ぬらすと魔法の力が失われてしまいます。商人はポケットにお金をたくさん詰め込んでいるので、頭をちょっとかがめただけでも水に落ちてしまう。

3人とも甲冑や服が邪魔になって命の水が飲めそうにありませんでした。解決の方法はたった1つだけです。戦士は甲冑を脱ぎ捨てました。魔法使いは衣を脱ぎ捨てました。そして商人はお金の詰まった服を脱ぎ捨てました。その上で、つまりそれぞれが裸になって跪き、冷たい、おいしい、驚くほどの恵みに溢れている、その水を飲むことが出来たのです。

 ジョフリー・ダンカンと言う人の書いた「命の水」と言う物語です。これは私たちキリスト者に1つの示唆を与えてくれます。甲冑とは力のことです。魔法とは能力のことです。またお金とは今まで積み重ねた努力のことです。この物語が語るのは、私たちが命の源である神様の前に進み出る時、私達はそう言ったものを脱ぎ捨てなくてはいけない。どれだけ大きいかということよりむしろ、小さきものでないと命の水に預かれないことが表されているのです。

 

◯小さな群れに喜んで

 「思い悩むな」とお語りになる主イエスは「空の鳥」と「野の花」を示して思い悩む必要がないことを告げられました。ただ、ルカ福音書をよく見てみますと、他の福音書では「鳥」と記されているのに「カラス」と記されていることに気づきます。

カラスという鳥は正直に申しまして不気味ですし、汚いイメージが強いように思います。例外はありますが、旧約聖書においてもカラスは不気味な忌み嫌われた鳥として描かれていることが多いようです。そのカラスのことを考えよと主イエスは言われます。カラスのことについて考える。そうすると考え付くのは、それが不気味な存在で、汚らしく、そして嫌われた存在であるということです。主イエスは空を飛ぶ小さなかわいらしいきれいな鳥を指して、あの鳥も神様の守りの中にあるのだとおっしゃっているのではなく、人々から忌み嫌われているカラスですら神様の養いの中にあるではないか、と言われているのです。

そのカラスと「小さい群れ」を併せて考える時、続く32節の御言葉「あなた方の父は喜んで神の国をくださる」という言葉の深さがよく分かります。人々から嫌われる存在のカラス。人からは認められないカラス。そのカラスさえも神様は愛し、守っておられる。それと同じように小さな群れ、弱い存在の者たち。人々はその存在を忘れてしまうかもしれない。人からは認められないかもしれない。しかし、神様が認めておられる。無力だとしても大切だと言ってくださる。神の国をくださるとさえ言っておられる。だから、小さく弱いことを「恐れなくてもよい」と言われるのです。

「あなた方の父は喜んで神の国をくださる」と主イエスはおっしゃいます。「喜んで」と言われるのです。小さな群れだけどしぶしぶ、ということではない。喜びをもって、小さな群れに神の国をくださるのです。何の役にも立たないものを喜んで認めてくださっている。いや、主イエスの弟子たちの作る小さな群れは、どういう群れだったか思い出したら良く分かる。その小さい群れは、役に立たないどころか、主イエスの足を引っ張る群れでありました。主イエスを売ったのは、また、主イエスを見捨てたのは、弟子でした。そのような足を引っ張るようなものに喜んで神の国を与えるとお語りになっているのです。

本当に小さなものを、取るに足らない者を、いや、主イエスを裏切る者を、喜びをもって迎えてくださる方がおられる。

私たちは、知らされています。神の御子イエス・キリストというお方は、神と等しい身分であられながら最も低きにお下りになられ、十字架にお架かりになられました。誰よりも小さきことの意味、弱きことの意味を知っておられるのは主イエス・キリストであられます。私たちが小さきを覚えるその場所に小さくなられた主が共におられます。そしてその小さきものを贖われるために十字架の死を死なれ、復活されたのです。まさに、その十字架と復活の出来事とは、「喜んで神の国を私たちにくださる」ということを神さまがお示し下さった出来事であります。

「小さな群れよ。恐れるな。あなた方の父は喜んで神の国をくださる」キリストの言葉です。大は小を兼ねません。最も小さくなられた十字架の主イエスは私たちの小ささの中でこそ輝きます。

 ○祈り

 私たち一人ひとりは小さなものです。それ故に不安を覚えることもありますし、恐怖を覚えることもあります。しかし、主よ。この日あなたの御子イエス・キリストの御声が、私どもの心の深くにこだましています。小さな群れよ恐れるな。恐れる私どもの恐れをあなたが取り除いてくださいますように。大きな働きを為すことよりも、小ささの中にあるあなたの恵み深さを覚えつつ、小さな働きを続けていくことが出来ますように。

 この地に建てられた、東京台湾教会がこの地で主のご栄光を表し御言葉に仕えるお働きをするために必要な全てをお与えください。連なる教会員お一人おひとりの、愛の業を伝道の働きを祝福してください。李先生の働きを祝福してください。日本の各地にある小さなあなたの群れを台湾の教会を、全世界にあるキリストの群れを主よ、祝福してください。